あの夜、何がおきたのかなんて断片的にしか覚えていない。
でもその記憶の断片は今でも鈍い痛みを残している。
今日、あの日から10年たった。
わたしはもう17歳。
正十字学園に入学して祓魔師となってから初めて迎えたこの日に、今まで閉じ込めていたあの夜ともう一度向き合おうと寮からこっそり抜け出して屋上に座りこんだ。
あの日、異変を感じた当時の和尚さまは明蛇の僧達を寺に集めて魔の気を祓うためお経をあげていた。
女や子供たちは別の部屋に集められ、この禍々しい気が去るまで結界の中に居るようにと言われた。
当時、矛兄15歳、柔造9歳、わたしと蝮ちゃんが7歳。
金造は志摩のお母さんにだっこしてもらってわたしのお母さんに添い寝してもらってた他の兄弟達と眠っていたけれども、わたし達はなかなか眠れずにいた。
矛兄のお膝に収まったわたしは喧嘩しそうな雰囲気の柔造、蝮を宥める矛兄の声を聞きつつ最近豆だらけになった矛兄の手を指でなぞっていた。
「、どないしたん?こしょばいわ」
今まで矛兄の手を弄っていたわたしの手を矛兄がその大きな手でやわらかく握って聞いた。
わたしは後頭部をぐりぐりと矛兄の胸にすりつけて甘えながら「まめ」と呟く。
「あぁ、これか」
矛兄はクス、と笑って自分の手をかざした。
「いたいん?」
「もう硬なったからへーきや。」
それに、と矛兄はわたしを持ち上げて向かい合うように膝にまた乗せた。
「や皆を守るために頑張った証やと思ったら誇らしいわ」
柔造が「矛兄、を返してや!」と騒いだけれども矛兄はやっぱり、静かにしいや、お経の邪魔や。と言うだけでぎゅう、とまたわたしを抱きしめてくれた。
そのままポンポンと背中を叩かれると緊張が解れて眠くなってくる。
まだ、寝たくないと矛兄を見上げたけれども矛兄は笑って今度は頭を撫でてくる。
柔造と蝮が何か言ってたけれども眠くて仕方なくなってわたしはすぐに眠ってしまった。
わたしが起きたときには、それはすでに始まっていた。
いろんなところから悲鳴やうなり声が上がる異様な寺の様子に怯えたけれども、わたしを抱きしめてくれていた矛兄は居なくて、柔造も蝮も居ない。
代わりにわたしはどこかへ走るお母さんに背負われていた。
「お母さん?」
「、起きたの?」
お母さんは走るのをやめない。
「ん。…どないしたん?」
「…大丈夫。お父さんのとこっ行こうね。お父さんが居たらきっと、平気だからっ…」
時たまちらつく青い炎。
大文字の赤とは違って鮮明な青は怪しくも美しくて、恐ろしい悲鳴があちこちから聞こえるのにわたしは大人しくお母さんの背中に身をあずけてその炎に見とれていた。
気がつけばお母さんはお寺の裏門の近くまで走っていて、その先にはお父さんの背中が見えた。
「あなた、」
お母さんはホッとしたようにお父さんに声をかけたけれども、
「来るな!!」
振り返ったお父さんの顔は、酷く焦っていた。
「あなた?」
お母さんが一歩踏み出そうとしたけれども、それはお父さんから噴き出した青い炎によって妨げられた。
「ああぁぁぁあ!!!」
「お父さん!!」
「あなた!!」
お父さんの口から、目から、青い炎は溢れ出す。
それと同時に真っ赤な血も下へと溢れる。
お母さんはわたしを降ろしてお父さんに駆け寄った。
でもお父さんはそんなお母さんを蹴り倒したのだ。
「お母さん!!」
わたしは踞るお母さんに駆け寄る。
お父さんが俯いたまま一歩こちらに寄った。
お父さん、お母さんのこと蹴って、やっぱり心配なったんかな、
わたしは様子の明らかに可笑しいお父さんに気づかないふりをして「お父さん」と呼んだ。
『ギャハハ…こいつは、まだ、持ちそうだなぁ♪』
「だれ…?」
返事をしたのは確かにお父さんだったけれども、話し方も、立ち振舞いも、全く違う人のようだった。
『だれ?はねぇだろーっ、ギャハっ…俺はお前のお父さん、なんだろー??』
お父さんだという“お父さん”は話すたびにボタボタと口から血が溢れていた。
「やめて…お父さんを返してっ」
お父さんはわたしなんて見ていなくて楽しそうに独り言のようなことばかり言う。
『やっぱりガキは女が良いな!パパ、なんて呼ばれてな!ギャハハっ』
そしてわたしを通りすぎて後ろの気を失っているお母さんにお父さんは近付く。
「お、お母さんにさわらんとって!」
わたしは怖くて堪らなかったけれども、この人をお母さんに近付けてはいけないと何か感じて、お父さんの足にしがみついた。
『おいおい、邪魔すんなよっ』
わたしはしがみついたは良いものの簡単に振り払われてそのまま踏みつけられる。
思わずう、と声がもれた。
『チッ…つかえねーなぁ!まともに力も出ねぇ、じゃ、ね…か、ぁ?』
そのままわたしはお父さんの足でぐりぐりとお腹を踏みつけられていたけれども急にその力が和らいだ。
「!!…刀や!教えたやつっ」
「え?」
お父さんの言葉にびっくりして顔をあげるけれどもまたすぐにお腹に衝撃が走る。
『邪魔しやがってっ、あぁあーっめんどくせぇ!!』
さっきのは…
わたしは無我夢中で真言を唱えて刀を取り出した。
『ガキ、なんだぁ?そりゃ?』
地面に擦り付けられて血が滲み出した頬に円形の模様の刻まれた刀の柄の先を押しあて、教えられたとおりに唱える。
「オン・アミリト・ドバンバ・ ウン・パツタ・ソワカ」
出てきたのは刀の形をした悪魔。
魔剣のように剣に悪魔が憑依したのではなく、悪魔が剣になったもの。
これこそが家の切り札であり、初代が見つけ出した奥の手。
この悪魔は悪魔を喰らう。
正式名すら無い異端の悪魔。
呼び出された悪魔、悪魔喰らいはお父さんに食らいつこうとしたけれども、青い炎が突然大きな火柱を挙げたので喰らい付けずに後退して、お父さんはその青い炎の火柱で覆われたあと、急にパタリと倒れたのだ。
青い炎が無くなったときには、そこには目や鼻、口、耳から血を流して弱りきったお父さん。
「お、お父さん…?」
「…?…無事、か?…おかあさん、は?」
じくじくとしたお腹の痛みを堪えてお父さんの顔を覗きこむ。
「お母さん、大丈夫だよ。」
わたしは何が起きているのかなんて全くわからずに必死に笑顔をつくってお父さんに話した。
「…そうか。、ごめんなぁ」
「なんで、謝るん?」
「…おか、さんに…言うといて、くれんかぁ?」
―辛い思いさせてすまん。もうおまえの好きに、してくれ。
と
お父さんはそのまま動かなくなってわたしはどうしていたのかは覚えていない。
気が付いたら達磨さまが居て、悪魔喰らいを見てすぐに真言を唱えて納めてくださった。
そのあと、達磨さまは言った。
家当主のに対してのはじめての命令。
―わたしが良いというときまで、あいつを召喚したらアカン。他の人にあいつについて話してもアカン。ええな?
冬の夜はやはり冷え込んで、かじかんだ指先にはぁ、と息をふきかける。
そして印を組ながら唱えた。
「オン・バザラ・ヤキシャ・ ウン」
光に包まれて出てくる刀。
あのときの、あの夜も呼び出した家に伝わる刀。
祓魔塾で習った後ならわかる。
この柄の先に描かれた模様は悪魔召還のための魔法陣。
あの真言は、召還のための正しい言葉。
―オン・アミリト・ドバンバ・ ウン・パツタ・ソワカ
あの日以来わたしは達磨さまに言われた通り悪魔喰らいは一度も呼び出していない。
結局手にした称号は『騎士』
今は『医工騎士』を目指してあの藤本先生に特訓してもらっている。
悪魔喰らいは何だったのか気になって調べたりもしたけれども、資料も出てこなくて、祓魔塾でも学ばなかった。
わたしの秘密を作った達磨さまはあの夜から皆に何かを隠してらっしゃる。
坊や蝮を含めていろんな人がそのことで達磨さまを信用できずにいる。
その秘密を知ろうとしている。
でも、わたしには達磨さまを探るなんてことできない。
達磨さまの隠し事にはおそらくわたしも含まれているからというのもあるけれども、何よりも達磨さまの優しさを知っているから。
あの夜泣きじゃくるわたしに約束してくださったから。
ー、もうちょっと、待ってくれんか?わたしが、すべてここで終わらせたるから
刀を仕舞ってわたしは屋上を後にした。
冬の夜は、まだピリピリといたい。