あれは、明蛇が金銭的な問題から追い詰められ、正十字騎士団に入る直前のことだった。みんな貧困に耐えかねて、家族も養っていけないからと明蛇をやめようかと悩んでいた時に八百造さんと蟒さんが正十字騎士団に明蛇も加わることを発表し、それに伴いついてくる者は残り、それ以外の者もそれぞれ身の振りようを考えてくれというようなことを言った。
正十字騎士団に入るということは?魔師になるということ。正十字学園では高校生から?魔塾で?魔師の教育をしているというから今高校一年生のわたしはおそらく来年から正十字学園に転校することになるのかな、と少しドキドキしながらはその日、家に帰った。
「もう、やってられないわ」
母は、東京出身の魔障も受けていない普通の人だった。青い夜で父が亡くなってからわたしが居たから明蛇に籍を置いていたが、それは母に多大なストレスを与えていた。
「もう、充分でしょ?、荷物を纏めなさい。良い機会よ」
母は既に段ボールに今必要ではない衣類や小物を詰めていた。
母の部屋にはもう何年も入ったことが無かったから、たった数箱の段ボールに収まるくらい物の無い部屋になっていたのだと初めて知った。
「お母さん、どこへ行くん?」
「…私の実家のある町よ。早く。」
「…いややっ!」
「ワガママ言わないで!ここにいたらまた、またあんなことが起こるかもしれないのよ!?」
あんなこと、とは青の夜のこと。
お父さんや、たくさんの人が亡くなった夜。
「生活だって苦しいし、こんな危ないところにいつまでもいる必要は無いの!」
お母さんは段ボールを持ってわたしの部屋に入って乱暴に物をつめはじめた。
「お母さん!やめて!」
「皆も辞めるんだから、良い機会じゃない!」
わたしは必死にお母さんから段ボールを奪った。
「…、返しなさい。それか自分で要るものをまとめなさい。」
「いやや!わたしは明蛇がええ!」
「!」
お母さんはわたしから段ボールを奪い返そうとするけれども、毎日修行しているわたしとの差は歴然でお母さんはすぐに諦めて床にしゃがみこんだ。
「だって、あの人みたいに…っ」
あの人みたいに、死んでしまったら、私はどうすればいいの?
しゃがみこんで俯いたお母さんの顔は見られなかったけれども、お母さんの悲痛な声だけでもわたしの心は大きく揺さぶられた。
確かに、明蛇にいて、祓魔を覚えて更にはこれから正十字騎士団と組むとなると普通に暮らすよりも危険にあう確立の高いことは火を見るより明らかだ。
お母さんはもともと普通の人だった。
今も魔傷を受けていないお母さんは悪魔なんて見えない。
普通の人として生きていける。
ーでも、わたしは…違う。
生まれてからずっと一緒だったみんな。
そしてお父さんに教えてもらったことを活かせる道を歩みたい。
「わたしは死なん。わたしは達磨さまや坊、明蛇の皆を守る家当主や。死んでたら、家族やって守れへんやん。」
お母さんはわたしが守ったるから
そう言い切るとお母さんは黙ってうつむいた。
しばらく沈黙。
したと思ったらふふ、と笑うお母さん。
「おんなじことを言うのね。あの人と。」
「お母さん?」
「…でも、にそんなことできるとはお母さんは思えない。それに最近少し体調が悪いんじゃないの?」
図星をつかれてわたしは押し黙った。
みんなに秘密のことだったのに、お母さんはもう勘付いていたのか。
「お母さんは、行って。わたしは、行けない。」
それでも、わたしの意志は変わることはなかったし、お母さんの考えも変わることはないとうっすらとわかったわたしの決断。
お母さんは何も言わずに頷いた。
わたしがもっと母にも気をかけていれば、こんなことにはならずに済んだのだろうか。
翌日にはお母さんの呼んだ引越しの業者さんが来てお母さんの必要なものを持っていって、その次の日にはお母さんは実家へ帰ることになった。
お母さんは、わたしが成年するまで家から籍は抜かずに、親権も持っておくと約束して、小さな鞄を持って玄関を出た。
「お母さん」
お母さんは立ち止まった。
「…また、会いに行っても、ええかな」
立ち止まってはくれたけれども、振り返りはしてくれなかった。
「…好きにしたらいいじゃない」
幼い頃、まだ、父がいた頃に母は幸せそうに笑っていた。
「お母さんは、悪魔、怖ないん?」
「お母さんには見えないからなぁ…でも、怖くないよ」
「なんで?」
「お父さんがね、約束してくれてん。おれはこれからお前を危険…危ない世界に巻き込むことになるけど、絶対に守ったるって。」
だから、お母さんは悪魔なんて怖くないよ。
お父さんが守ってくれるもの。